「しょうぶ学園」の記事

つぶやきホルン

2012年06月14日 22:12

昨日の西日本新聞の朝刊に、2年前に訪問した「しょうぶ学園」の記事を見つけました。
「しょうぶ学園」というのは、鹿児島市の北部(霧島方面)にある障害者支援施設です。

ここの活動は、障害者に色々な作業を「やらせる」のではなく、それぞれの障害者が自分の思うがままに作業を行い、作品を生み出す、そのことをスタッフがサポートするという、実にユニークだが、先進的で理にかなった取り組みを進めています。

新聞記事では、施設長の福森さんが、「工房しょうぶ」から生み出されるものには3つの種類があると説明されています。

一つ目は、木工や刺しゅうなど障害者の行為から生まれものにスタッフがデザインや加工などの工夫を加えたり、スタッフが製作した木工品などに障害者が自由に手を加えて工芸品として販売する「クラフト」

二つ目は、芸術性が感じられる「アート」。美術展などに出展し評価されれば一般の芸術作品と同じになる。

三つ目は、「アート」でも「クラフト」でもない造形物。評価はされないが(だからほしがる人はいない?)障害者の純粋な行為で生み出されるもの。

福森さんは、三つ目のもののことを、「福祉施設だからこそ見つけ出せる行為の美しさ」と述べられています。

確かに、訪問したときに出会った、一日中、粘土を10cmくらいの紡錘状に練り上げてはいくつもくっつけて造形物を作り上げていく人、糸と針で一日中蜘蛛が巣をつくるように造形していく人など、その純粋な行為に驚かされたものです。

「クラフト」と思われる作品




「アート」作品




「アートでもクラフトでもない」作品?




この記事の中で、福森さんは本当に大切なことを次のように述べられていました。

「障害者たちは、邪念を計算に入れず、自分がやりたい表現を純粋に出せる。
私たちこそ、周りに縛られて自分の表現を押える障害があるのではないか。」
「現代はものをつくらない時代。・・・和紙をすくとか、木を削るとか、人間はものづくりと関係の近いところにいた方がいいのでは。」
「障害者は時計が読めなくても、パソコンができなくても、困ってはいない。一方、人間ができる最低限な部分をかなり残している。・・・」
「今や幼児でもスマートフォンは操るが、木は削れない。」「ものづくりの能力を失った現代人はいったいどこへ行くのか。」

2年前に福森さんにお会いしたときに言っておられた、「私たちの価値観から彼らを障害者と言っているが、本当に私たちが「健常者」で、彼らが「障害者」なのか考えなければならない。」という言葉を思い出しました。

私たちが元気アートプロジェクトでおつき合いしている福岡の「工房まる」も同様のコンセプトを持つ仲間です。

障害者支援の世界に、徐々にこの様な考え方が広がっていることを大変うれしく思っています。

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